「晴耕雨読」と伊豆新聞 新米農民より

にわか「農民」と言えども、定例農耕日の朝は気になる。

24日、予想通りに朝400は激雨。

雨音を耳に、伊豆新聞を広げ「潮の響」眼を通す。後方部分に、「伊豆市の茶葉からも、県内最高値が検出されたのは心配である。県は『基準値以下で健康に害はない』と発表。

一安心ではあるが・・・海にも汚染水が放出され続けており、広い範囲で魚への影響も心配。もはや東電も政府も信用ならない―と多くの国民が考え始めている。安心はしたいが、正確な判断ができる情報が何より欲しい。終戦間際、『敗走』を『転進』などと発表し続けた大本営。気づいたら東京第大空襲から廣島、長崎の原爆投下へ―原子力で再び、同じような眼に遭うのはご免だ」父を「長崎原爆(内部被爆)」で殺された私としては、執筆者に「大拍手」を送りたい。伊豆新聞の水曜日に、中山千夏さんのコラム「ただいま雑記」が連載されている。この方も、東京より「避難?」された人らしい。福島原発と伊東市民の表情を交えながら書かれている。525日の“その124”では、最後に「そこで今週の武玉川一句。『この節は弱り目に斑目』意味、わかりますか?」で締めくくられている。思わず苦笑すると同時に、文学者として敬意を表した。中山氏の社会活動暦を見ると、美濃部氏の名前が出てくる。美濃部氏は、1967年の東京都知事選挙で、社会党・共産党からの「革新統一候補」として当選し、312年間を勤めた。私は、渋谷のK大学時代、選挙中は美濃部氏警護団の一員あったことを思い出した。「革新統一」懐かしい台詞である。

私は思う、伊東市に於いて、「浜岡原発廃炉」の一点で、市民統一の戦線が作れないのか?

今朝の各紙に「福島原発『23号も炉心溶解』」と報じられている。私は、「レベル7」以上の想定はできない。仏教用語に「因果関係」がある。因を消滅させない限り、結果は永久に続くのである。

 

3度目の正直」の言葉通り、快晴。陽光に輝くヴェール・レーテュの茶葉、そこから醸しだす薫風、お祝いするかのような鶯の鳴き声。万全整い「茶摘み人」を迎える。1000、緑の園に黄色い声が響き、ひまわりクラブの小学生18人引率者10人が行進風で入園。摘み方等、注意ごとを聞き一斉に茶畑に飛び込む子供たち、大キャンパスの画と化した。休憩。新茶をよそ眼に、郷組自家製の練羊羹をほうばる子供たちの笑顔と煌めく瞳は、碧き空に吸い込まれた。2度の雨で3度目の参加者は少なくなったが、「煌めく体験」として残れば郷組の役割は大きい。子供たちは去り、静寂の中で東の方を仰いだ。416日「竹の炎と長崎原爆」で記した。「この伊豆半島にもヒタヒタと放射能『死の灰』がおしよせている」昨日、神奈川県の「足柄茶」生葉から、暫定基準値を超える放射性セシウムが検出と報道された。

1975年のアメリカ・スリーマイル原発事故(レベル51986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(レベル7)、そして今回の「福島原発」事件(レベル7)、「3度目の正直」は許せない。しかも「先進国」と言われている国々ではないか!この国々に共通するものは「すべて『人の命』より始まる」を忘れているのではないか1.菅首相は、3年後に「浜岡原発」を再会すると発言している。私は、東の「福島」、西の「浜岡」を同時に観ることは出来ない。原発推進論者に、今日の子供たちの姿を見せたい。あの「煌めく瞳」にウソを述べていたら「地獄」落ちになるであろう。仏教用語に「仏の顔も3度」とある。